ナショナルな幻想が打ち破られるとき、それは失恋に似て、現実界との

ナショナルな幻想が打ち破られるとき、それは失恋に似て、現実界との邂逅でもあるが、不安に耐えられず人はまたすぐ想像界に引き戻され幻想を生きる★

どっかで書いたコメントを編集。

在日朝鮮・韓国人の渡日の経緯について「強制連行」を思い出すひとがいると思われるが、それは一部事実であるが、それだけでは逆に日本の植民地支配(侵略)の問題と現在に続く問題を矮小化、短略化させる。

私は「特権的に」在日朝鮮・韓国人や中国人が被害者であるとおもっているわけではない。
被害者とは個別の、個人の問題であり、帰属の問題は、心理的な不愉快でしかない。(反日?逆差別?)

だからといって、強制労働、強制徴用の問題、植民地支配による抑圧/被抑圧の関係がないがしろにされることに否定的だ。もちろん、ポジショナリティーの問題も、重要だ。日本人と在日の位置関係。実生活ではほぼ見落としがちな潜在的権力的格差。


植民地侵略(日本保守・右翼に言わせれば進出?)は、勝手な支配者側の論理、言い分としては、
植民地近代化によって発展させ、インフラを充実させたと、むしろ、搾取されたのは
私たちなのよ!(マンガ嫌韓流より)

右派、保守派は「いいこともやった」と言い訳しているわけだけど、

根本的に「植民地支配・侵略」による近代化のひとつの問題点を取り上げたい。
日教組平和教育でも、なかなか教えてもらえないものだろう。
俺も説明しずらい。

植民地近代化について。
日本帝国の近代化と工業化による農村から都市へ流入する過程で、都市の雇用が農村から流入する人口を包摂することができず、より多くの失業者、流浪の人を増やしたことが、植民地近代化の最大の問題。

それは、大きな社会変動による労働人口流入の問題である。
工業化はすすむが、
農村→(外地朝鮮)都市への移動ができなくなったら、必然的に貧しい人たち
(とくに朝鮮半島の南の地方の人々)、内地である日本に流入して、
仕事を求めにいくしかない。(これをネトウヨや右派に人間は自由意志の「移民」と呼ぶ)
経済難民化せざるを得ない

それは内地において労働力が不足したとき、総督府および日本政府も許可していたことで
なんら違法的なものではない(これを不法入国者として一部ネトウヨは在日全員を不法入国扱いしている)

また、過剰に流入が増えたときは、日本政府は規制もしていた。つまり、雇用の調節弁として、外地(半島)の労働力を利用していた。(これは日中戦争以前から)

いまの「入国管理局」が、日本の労働力が不足したときに、
一時的に「外国人労働者」の流入
認め、さらに「オーバーステイ」を事実上認めながらも、なんらかの理由
(政府や役所の都合?日本人雇用枠の減少など、あるいは治安悪化という世論がもりあがるとき)いっせいに取り締まって、品川の入管に閉じ込めて、強制送還を待ちながら、受刑者のような生活を強いられている立派な人権侵害が行われていることはこの文脈ではずれるが。それと似ている。(不法入国だっだが、日本で生活基盤を築いて日本人と結婚もしてた
ガーナ人男性は強制送還のさいに飛行機登場直前暴れて、警察に取り押さえられ死亡
当時の警察の過失によって死亡した可能性が高い)

日本帝国のみならず先進資本諸国家(元植民地侵略国家)では、帝国主義植民地主義から現在まで過酷の程度の差はあるかもしれないが、一貫して行われていることであると思う。

そもそも、土地調査事業(1910〜1919)と称して、農民から土地を収奪し、仕事を奪い、
さらに地主の両班を懐柔して、「親日派」にさせ、日本統治下のもとで農業生産手段をより強く管理し
(韓国でよく言われている話だが、「舞妓」、「妓生」遊び、また花札で懐柔させていたという言い伝えもある)産米増殖計画期では、近代化による半島の米生産量も向上したが、多くが内地へ送られ、
農民の搾取と失業者の増加による困窮はより酷くなったのはいうまでもない。

まるで、産業革命以降マルクスが憂いでいた下層労働者の搾取状況や、レーニンが憂いだ帝政ロシア農奴の苦しみにも似ている。

近代化によって、苦しんだ内地の農民や下層労働者は
当時マルクス主義アナーキズムに傾倒していった。だから、戦後まもないころ、共産主義マルクス主義が盛り上がったことは理解できる。戦後朝鮮人が暴動を起こしたというのも、日本の左翼勢力(貧しい労働層)とともに権力獲得闘争や社会変革、民族の権利獲得のために運動し、闘った痕跡である。

それと闇市をしきった暴力団朝鮮人(運動する朝鮮人にくらべて少数)のイメージが合わさり、戦後日本人にとって「三国人」という差別用語と暴力的なイメージという偏見が構築されたことはいうまでもない。
さらに、戦後暴れていたのは、日本人も台湾人もいたんだよ。
ゴロツキに出自や帰属は関係ない、構造的要因や環境の要因は大きいと思うが。

そして、戦後から続く社会変革の運動は、ベトナム反戦69年熱い秋を経て、
それは70年代までの日本の学生運動にまで強い影響を及ぼしていると思う。

そもそも韓国の4・19革命は、日本の第一次安保闘争に強く影響していたのだから。


あとは植民地責任・戦後責任について、

もちろん「日本」とは国民国家主体のことで、主権国民たる「日本籍者」に、後ろめたさを感じろとか、謝れとか、罪悪感を感じろということをいうつもりはない。
むしろ、私の友人である日本人にそんな気持ちは持ってほしくない。責任主体は
旧帝国の戦争・侵略の多くを中途半端に処理した現日本政府である。
責任感の有無を一人一人の「日本籍者」に問うつもりはない。
自覚を促す言説を垂れ流しているかもしれないが。


当時の植民地近代化が誰にとって幸せなのか。

現在の「日本」の右傾化した人間に問いたい。

君たちは帝国主義を肯定する「支配者」側、ブルジョアジーの側のアイデンティティーと社会的位置(ポジショナリティー)を維持しながら、抑圧者であることを選択し続けるのかと。誰かの幸せを踏みにじるのは快楽なのかと。
たしかに、難しい問題だ。ネトウヨやねらーは他人の不幸は「メシウマ」だからな。

中国やほかの東南アジアの国への「戦争責任」、台湾や朝鮮・韓国に対する「植民地責任」の清算とは、まず日本国家の政府が一貫して毅然とした態度と、法整備化ではないかと。

個人が抱く申し訳なさはかえってじゃま。
運動の動機にするのは勝手。
もちろん、重要な動機にはなるのかな・・・

さらに、国家間の協議の上での個人賠償の問題をもっと交渉し理解していくべきだろう。
そのためには、日韓条約は公開され、見直しも含まれるべきであるし、日朝国交正常化の努力も必要であると、思う。

また、上に述べた以外に、現在の在日朝鮮・韓国人の渡日経緯は、日本の大戦終盤において
「徴兵」、「徴用」、「管斡旋」などにより当時日本内地の朝鮮人人口は爆発的に増えた。
日本の戦争末期に行われた「強制従軍」、「強制労働」さらに一部「強制連行」なども無視出来ない。

また、「従軍慰安婦」の問題も絶対無視できない。
戦時性性暴力がその戦争でも問題になるのだから。そして、女性に対する男性の性暴力の問題、性愛の問題など現在進行形の問題である。
性愛は男女とバイナリーなものでもないことも大切だ。
ここでも権力的な格差が重要である。潜在的な、目に見えない、日常では気づきにくいもの。

そして、渡航に関して「朝鮮戦争」、「4・3事件」、「経済難民(移民)」など難民として多様性に満ちていることはいなめない。

中にはリスクを省みないフリーライダー(密入国者)もいただろう。

それは、国境そのもの、国家そのものを決める境界が強固なものではなく、液状化しやすい
泥の壁でしかないということだ。近代化してもそれは同じこと。

昔の「渡来人」もそうだろ。日本からも伽耶任那?)で来ている場合もあるし。

あまり境界にこだわることはおろかなこと、強固にしようとすればするほど不安になる。
防人アイデンティティは不安になるだけ、孤独になるだけ。

流入が仕方ないからといって、権力的資本や安い搾取品が入ってくるだろう。
それは帝国主義的グローバリゼーションによる自国の農民の困窮には反対すべき。FTAなど、
でも、移民に関しては俺もまだよくわからん。反対ではないが、憂慮はある。



しかし、それでも
日本社会のマイノリティーの問題にさいして、植民地支配、侵略の文脈以外でも、
示すべき国家的責任と態度が必要であると思う。つまり、客体化させモノ(労働力)として
扱わない。部屋にはいってきたハエのように扱わないこと。
それはナショナリストレイシストにもいいたい。

「強制連行」は、難しい歴史的課題だが、
考察や研究はこれからさらに続けられるだろう。

最後に在特会の出現が在日社会側に問題があると考える人は、
在日社会全体が要素となって、在特会が生まれたわけではないことを強調したい。

これは「日本人」と日本国家の現状と彼らが抱く根強い差別感情、マイノリティーへの投影、そして、彼らの幻想のなかの「国家」への異常な愛情とその失望など、複雑に絡んでいる。

彼らにとって、「在日特権」というものは格好のえさ(ネタ)でしかなく、彼らはこれから、脳内お国のために妄執的に他者を暴力的に排除しようと、躍起になっていく。

問題は、彼らの脳内祖国の幻想から醒めて彼ら自身が失恋して、落ち込み、対象転移によって、
次の社会の問題や趣味に走ることが解決策であると私は勝手に思う。
偏見にとらわれず、不安より希望を見出して、ネットをリアルの一部の認識し、
ネットもまたうそまみれであると考えてほしい。

在日がもし行っている不正や犯罪は、法治国家日本の公的機関がなんとかしてくれるし、
民主主義国家日本は討論する機械とコミュニケーションする自由があるのだから。

私は、在日社会の問題と在特会の存在を結びつけることは、

俺がこの前失恋したのは、在特会と対峙し、ウォッチし過ぎたせいだと言っているようなもので、(片思いで勝手にフられただけ(笑))

勝手な投影、問題のなすりつけでしかない
そもそもが乖離している問題である。

愛国よりは社会や世界、地球を愛し、いやでも作られてしまった境界を乗り越えたり、
境界自体を融解させることのほうが、優しい世界がつくられると思うのですよ。

そして、そのやさしさをさらに隣にいるあなたにとって大切な人のために使ってほしいの
ですよ、見返りを求めてしまうかもしれないけど、
たとえ裏切られたと感じたとしても、それは勘違いであると、
むしろ、思い通りいかないからこそ、他者性であるということ。
そして、その他者性を噛み締めながら、憎悪とやさしさの間を反復して、
悩み、苦しみ、おのれの愛を、優しさをより大きくやわらかいけど、噛み応えのあるような
絶妙なものにふくらめせてほしい。

そう俺もまた変わらなければならない。

それが、北田暁大がいうような、
赤軍の自爆(反省、自己省察の極限)した70年代以降、反省することを恐れ、
消費社会に踊りくるい、利己的になるしかなかった私たちのロマン主義シニシズム
卒業する道筋であると思う。

ネタにベタに反応して、出てきてしまった「在特会」≒ネット右翼どもよ。
俺たちも君たちのネタにベタに反応して遊んであげるよ。

ネット上の「戯れ」の延長上は、リアルの街頭だ。遊びだから、お手柔らかに(笑)


本当に適当に書きなぐったため、見苦しい点申し訳ないです。